2016年9月14日水曜日

【美術】 明治初期の日本洋画 【脂派】

明治維新後、日本に急速な文明開化がお起こりました。

これにより、日本旧来からある美術が否定され

欧州から最新の芸術が輸入されました。


その頃日本で最初の国立の美術学校である、

工部美術学校が開校されました。明治9年のことです

この美術学校では最初西洋美術の科目のみでスタートし、

教員はイタリヤから招へいされた外国人教員ばかりでした。


しかし、明治の時代の流れはやがて国粋主義へと移り替わり

伝統的な日本美術を復興させる動きが興り

工部美術学校は明治16年に閉校されてしまいます。


そして明治22年 新たな国立の美術学校として

東京美術学校が設立されます。これがのちの東京芸術大学です

しかし、この東京美術学校には西洋美術の科目がありませんでした。

なぜなら、岡倉天心とフェノロサが中心となり日本伝統の文人画や

彫刻を保護し継承させる側面も持っていたためです。


これに対し、工部美術学校の西洋美術を専攻した作家たちが結集し

作られたのが「明治美術会」です。

この会に参加した作家には、

山本芳翠
五性田義松
五性田芳柳
浅井忠
などの

著名な作家が名を連ねます。

そして後から黒田清輝も参加したことにより

西洋美術の発言権も回復するにいたりました。

しかし、黒田以前の洋画家と

外光派といわれ印象派の技術を学んだ黒田清輝以降では

画風があまりにも違いました。

浅井忠 「農夫帰路」


黒田清輝 「野辺」



二つの作品を見比べると良くわかると思います。


黒田以前の作家の画風の多くは彩度が低く暗めの画面で

落ち着いた感じがします。そして、茶系統の色使いが多いです。


それと対比して外光派の画風は明るく彩度も高く最新の技法も多く

取り入れられています

そのため外光派を今までと違う「新派」といわれ

それまでの画風の画家たちを「旧派」といい

「外光派」に対して「脂派」(画面に脂が付いて茶色くくすんでいるという意味)

と言われるようになりました。


明治26年に入会した黒田清輝が明治29年に会を離脱し

新たに「白馬会」を設立し「明治美術会」は次第に衰え

その後、明治34年に解散します。

その頃には東京美術学校にも西洋画科(明治29年)が新設され

浅井忠も海外へ留学し、日本の洋画も新たな発展期を迎える事となります。


一時、「脂派」と言われた作家達の「脂派」時代の作品は

多くの人から忘れられ、知る人ぞ知るという風がありましたが、

ここ、20年来 国内の美術館が日本近代美術の強化に取り組むことによって

多くの人が知ることとなりました。


明治維新後の文明開化時に学び作品を発信していた作家たちが

現在の日本洋画界の礎であることは違いありません。

私は「脂派」の落ち着いたある意味泥臭くもある画風に他と違う力強さを

感じます。きっと激動の時代を越え、新たな文化の声を直接聞いた人の

感動がそこにあるからだと思っています。

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